ロミオの行方 ――ふたつの「わがままジュリエット」考

その小説を書くために「わがままジュリエット」と、先日買ったばかりの「Case of HIMURO」から氷室がソロでセルフカバーした「JULIET」を聞き比べてみた。
アコースティックバージョンというアレンジに期待していたのだが、実際に聞いてみると「JULIET」は期待に反してそんなに面白くない。そう思った理由は、他ならぬ氷室のボーカルだ。あまりに甘く、あまりに優しいのである。
ずいぶん前に作った曲だから*1、重ねた歳月に応じて歌い方を変えることはまあ当然だ。補足するならば、このアルバムの時期の氷室は、深い声で中低音を歌い上げるような現在のボーカルスタイルをすでに確立させていた。よって、このような歌い方をすること自体に責任はない。
ただ、「わがままジュリエット」は単に甘く優しいだけのバラードではない。大サビの畳み掛けるようなドラムが示すとおり、触れれば切れそうな激情と背中合わせでもあるのだ。激情が繊細なバラードの形に収まっている危うさ、そしてそれを表現しえるシャープなボーカルこそが「わがままジュリエット」を傑作たらしめていたのではなかったのか。少なくとも私はそう思っていた。


しかし、結果からいえばこの意見は充分ではない。間違っていはいないが、まだ途中だったのだ。
何のために「DON'T YOU CRY」のコーラスがなくなったのか。何のためにアコースティックアレンジとなったのか。何のためにタイトルから「わがまま」が消えたのか。何のために15周年のベストアルバムに収録されたのか。それは「JULIET」を歌ったのが、その時の氷室京介だったからだ。
わがままジュリエット」の頃と違うものを考えればいい。時間、経験、音楽性、歌い方、バンドとソロ、環境、周りにいる人たち、ファン層の違い……。このうち、「JULIET」と関連付けるべきは経験である。
つまり、ソロの音楽性で製作された「JULIET」は、「わがままジュリエット」よりもっと深い闇も、光も、怒りも、絶望も、優しささえもを知った氷室だからこそ歌える楽曲だったのだ。同じ「COH」に収録された「TO THE HIGHWAY」を聞けば一目瞭然だった。
そう、言うべきことは次が最後だ。
上手すぎっす、先生。

*1:シングル「わがままジュリエット」の発売が1985年、「Case of HIMURO」の発売は2003年。