SLAM DUNK単行本を読了しました

ほとんど何を知らないまま映画館に飛びこんで一ヶ月半、ついに原作旧版コミックス全31巻を読了した。
山王戦の結末こそ知っていたが、それでも自分が息をしているかさえ忘れてページを繰り続け、読み終えた時には砂浜のある海を見たいと思った。
以下は原作全体のストーリーや映画の詳しい内容に触れながら感想を書いていく。キャラクターについても私の価値観でキリスト教的に解釈しているところがあるため、ご了解の上で進んでいただきたい。

「あなたになりたい」

インターハイ前に花道のシュート訓練に参加した晴子は、自分の三年間の練習を一日で越えてしまった花道に「嫉妬している」と語る。さらに豊玉戦で花道は、会得しようとしたシュートの理想型が流川の姿そのものであったことを悟る。
もしかして、SLAM DUNKには「あなたになりたい」あるいは「私があなたであるはずだったのに」という裏テーマがあるのではないか?
スポーツものをはじめ、高い領域の目標を求めて切磋琢磨する物語にはむしろあって当然なのだが、花道が自分とは正反対の流川に理想を見ていたことは私にも衝撃で、ここを目にした時はしばらくページを開いたまま立ち尽くしていた。

こういうテーマを挟んだところで、豊玉戦では「子どもの頃の憧れ」というまたもスポーツものに欠かせない要素が描かれる。
かつて憧れた選手たちのように、あのコートでバスケがしたい。高校からバスケを始めたばかりの花道にはなかったこの願望を、しかし晴子が序盤からいつも語って聞かせていたことに着目しよう。

SLAM DUNKホモソーシャルの話に終わっていないのは大部分晴子の功績だと思う。
初期には花道を導くコーチであり、成長してからも常に晴子は敬愛され、一方で花道のいないシーンでも一個人としての意志をはっきりと持つ。都合よく花道に振り向かず、だが恋もすれば嫉妬もする。その心が侵害されることはない。
なのでSLAM DUNKの女子キャラクターでは私は晴子が好きで、「流川の頭の中はバスケでいっぱいで、私が入るスキマなんてどこにもなかった」と思うシーンで共感しすぎて古傷が開いた。

流川の親衛隊も、きっと相手にされてもいないだろうに毎回あれだけ懸命に応援に駆けつけて偉いと思う。
どんな時にも流川の声だけは花道に届き、いつも流川は花道を見つけにくる、というのが少し羨ましい。
私はといえば(三井のファンは皆そうだと思うが)見れば見るほど徳男が他人に思えなくなってくる。本当にあんな感じだった。腕力がないから旗振ってなかっただけで。私たち絶対どこかの会場で一緒に応援したことあるよね?

女子の生き方という意味では、宮城アンナのこともずっと考えている。
彼女だって家族の喪失に直面してきたのに、母や兄弟の悲しみは書かれても、アンナは死の事実にさえ触れさせてももらえない。 すべてを知ってからも、兄の顔を忘れてしまいそうになるまで遠ざけられていた。さらに次兄も死にかける。そんな中で顔を背け続ける母とリョータの間に挟まれていたアンナ……。

山王戦

山王戦は先に映画で結果を見てはいたが、「あの試合があったからこう運ぶのか」と思うようなところもあれば、映画ではカットされていた部分もあり、新鮮な気持ちで読んだ。

中でも31巻の宮城から三井へのノールックパスが漫画表現として秀逸である。
光は前を向いているのに、瞳孔が、目の一番暗いところが三井を捉えている。
命を取り合う寸前までいったのはこのためだったのか、と思ってしまった。

さて、桜木花道の負傷について。
誰も花道を止めなかったことを語ろうとすると、その非難の声が、私は自分に返ってきてしまう。私にもあるのだ。怪我していることを知っていて、この手で選手をピッチに送り出したことが。
詳しくは映画初見時のエントリーに書いたので、興味ある方はお読みいただきたい。もう一度書くのも辛いから。
liargirl.hatenablog.com


せめて選手生命の危機を経験した三井は止めてくれないのか、とも思うが、やはり彼もできないのだ。あれが自分の再現でもあるが故に止められはしない。
また、ラインを出そうなボールを追って倒れこむシーンも原作初期から頻繁に描かれており、これも選手を止められないひとつの要因になっている。怖いほど漫画表現が上手い。現代の倫理観を持って読んでさえ、本の中の世界ではこれが成立してしまう。

回心

三井を見ていると、どうも回心というテーマを考えてしまう。
新装版6巻の装幀はどうして紫にしたのだろう。キリスト教では悔い改め、神への回帰、償いなどを表す色だ。


もともと私がTHE FIRST SLAM DUNKの三井を好きになったのは、自分のシュートで自分を救う姿を好きだと思ったからだ。
しかし今は、自分だけで自分を救っているのではないということも分かった。友人を愛して、仲間を信じ、時に自分を使えと呼びかける献身性も持ち合わせている。
「あきらめの悪い男」を名乗る三井からは、虚飾を脱ぎ捨て、自分をやり直して生きていく姿勢さえ感じる。

彼の物語を読めば、私の人生をかけて付き合っていくテーマと重なるところがなんと多く見つかることだろう。

思春期に出逢っていたら大変なことになっていたかもしれない、と思っていたが、大人になってから出逢う三井寿も大変だ。
毎日打ちのめされて絶望をして、時に届かないと突きつけられて、諦めようとしても忘れられなくて、でも好きでしょうがなくて離せないものを、それを好きな自分のままたとえ汚くても生きて愛していたいと思える。この人のように。

三井には、どうかこの物語の後もバスケットと、そして友人を愛して生きていてほしい。
いつでも応援している。