SLAM DUNK単行本を読んでいます①

これまでのあらすじ

ほぼ何も知らないまま映画「THE FIRST SLAM DUNK」を観て、少しずつ原作コミックスを読み進めている。

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liargirl.hatenablog.com

親切な知人から旧版コミックスを借りることができて、
せっかくの厚意なのでそちらを読みつつ、優先的に読み返したいところから自分で新装版を買っていこうと思う。
今は海南戦後のがけっぷちのあたり。
キリのいいところだと思われるので新装版の6巻を買った。

体育館襲撃について

前述の知人から、事前に「ミッチー相当すごい喧嘩してるけど大丈夫?」と念を押されたため、三井が相当やらかしてるらしいことは承知していたつもりだったが、まさか単行本まるまる2巻かけて喧嘩しているとは思わなかった……というのが正直な感想。
90年代初頭ですでに花粉症だった私に言わせれば、この頃の子どものマスクといえばガーゼマスクしかなかったのだ。ガーゼマスクなのは仕方ない。

そう、子どもだし思春期なのだ。
新しい人に出逢うことは新しい自分を知ることだと思うが、三井を見ていると自分の思春期の頃が思い出されてならない。かさぶたをはがすような気分。
いい大人になってから出会ってまだ良かった。

あまり暴力を美化したくないのでバスケの話をしたいのだが、その前に野次ラーとしてひとつ疑問が浮かぶ。
「なぜ三井は、2年も不良をやっていて喧嘩の戦術を立ててこないのか」
バスケの戦術理解にはあんなに長けているのに。
話が前後するが、山王戦で安西先生が三井の長所として「知性」を挙げているのも戦術理解の意味だと思う。
チーム内の意思疎通ができているか、どこに自分が必要か、そのポジションにいるためにどう走るか、時間帯をどう考えるか。こういったコート上の情報を整理し三井が走る時、非常に洗練されたセンスを感じる。
サッカー界では「監督のやりたいサッカーを表現する」という言い方をよくするが、スタミナ不足でも長時間の出場を求められるのは、監督がこの役を欲しているからではないか。個々の戦力を繋ぎ、戦術として成立させるためには三井が必要なのだ。
書いていて思うが、技術だけでなくこれだけ戦術に貢献して、個人としても大量の点を取れる、ブランクがある割に当たり負けもしない、モチベーターとしても優秀、体力さえ追いつけば本当に化け物だな……。

それを考えると、宮城を集団リンチしようとして初手で鼻に頭突きを喰らったのは何だったんだ?
私でも知っているような初歩の戦術(?)だ。殴るならまず鼻だと、Angelo時代にキリトさんが言っていた。
だから余計に、「三井が本当にいたかったのは、コートがありリングがあり、ルールありきで行われる競技スポーツの世界だったのだ」と思ってしまう。
道具の使い方を教わればやけに素直に聞くあたりにも、逆説的に規則を重んずる傾向が感じられる。ルール無用の殴り合いバトルロワイヤルに滅法弱いのも頷ける。

なまじ人の期待を実現できるからこそ、周りからも大人たちからも、おそらく自分自身からも過信されていた「武石中の三井寿」のことを思うと胸が苦しくなる。
怪我をしっかり治さないまま強行出場して、さらなる大怪我を負う選手を大勢見てきた。あなたもなのか。

繰り返すが暴力を美化したくはないし、動機があるからといってやっていいことではない。
木暮の「同情なんてするんじゃなかった」には心の底から同意する。
ただここから先のストーリーは、主人公・花道が物事を一つずつ進めていくようなタームから公式戦へ、つまりより高度な技術と連携、戦術を持つチームを作る必要がある。
そのため、本来なら同等の選手であるはずの三井と宮城が衝突し、その後仲間に引入れられるという、ストーリー上の必然性は認められてしまうのだ。
三井にできることはただひとつ、暴走を止めてくれた人たちに感謝することである。
迎えてくれたバスケ部、本当にやりたいことのために送り出してくれた友人たち、そして自分のために、一緒に燃えよう。
自分のシュートで自分を救う三井が、私は好きなのだ。