米澤穂信「儚い羊たちの祝宴」

儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴

以下、本書及び同著者の「夏期限定トロピカルパフェ事件」の詳しい内容に触れています。

米澤穂信の「透明」さ

米澤穂信といえば古典部シリーズや「ボトルネック」に見られるように「青春ミステリ」というラベルがあります。しかしその青春の透明感というのはむしろ、硬質な本格ミステリと顔をしかめるような苦さを覆う透明なフィルターなのではないでしょうか(これらを剝き出しにしたのが「インシテミル」)。
このフィルターは一時的にせよ登場人物たちを「苦み」から遠ざけ保護すると同時に、本格ミステリの結構を溶け込ませ一般小説として不可視化させるといった役割があります。つまり、米澤の表向きのペルソナなのです。


儚い羊たちの祝宴」にも、「身内に不幸がありまして」の少女小説のような文体からすでに伺えるように、透明感は見られます。ところがその透明感は、本書においてはフィルターどころか本質そのものであり、苦みや犯人たちの狂気といった要素によって、ごまかしようもなく濃く色づいています。
この特徴は、「儚い〜」に収録された5作がいずれも少女の一人称(「儚い羊たちの晩餐」のみ手記と三人称が混在)語られていることと、決して無縁ではありません。

裏テーマは少女

私は「小市民シリーズ」の小佐内ゆきを「『事件を持ってくる役』あるいは『事件を誘発する役』」と評しました。
しかし考えてみれば、彼女に限らず米澤作品の多くで男どもを引き連れ積極的に物語を進める役を担っていたのはヒロインたちでした。
とすれば、本人が「語る」というかたちで物語を進めていく一人称の短編――それも手記に限りなく近いものならば、主人公が少女であること、いずれの文体も少女小説的であることは必要不可欠だったのです。
なぜなら、透明さと苦み・狂気を矛盾なく内包し、表現して悪びれないのは、この世で少女だけだから。2編でエス関係が匂わせてあるのも、これと関係があります。
ということで、そんな特色を鮮やかな伏線とともに生かしきった「玉野五十鈴の誉れ」が私のお気に入りです。