麻耶雄嵩の探偵観

かく語りき

麻耶雄嵩は私が忘れがたい衝撃を受け、その感性に刺激され続けたいと思う作家である。中でも彼の描く探偵像や、探偵-助手の関係性実験は私に多くの影響を与えている。
そこで、これまでに単行本として発刊された麻耶雄嵩の著作から(雑誌連載の短編はまだ実験途中の可能性があるため)、彼の生み出した探偵について思ってきたことをまとめる。論述というより、感想文の形で。

「名探偵 木更津悠也」と「貴族探偵

「名探偵 木更津悠也」は全編を通して、助手/記述視点によるプロットの操作実験が行われることから、香月の存在が目立つ。
しかし、私がこの作品集を読んで何よりも衝撃を受けたのは、香月が愛してやまず、憧れと好意をもって描いているはずの木更津の存在の弱さだった。
私には木更津に人格がある気がしなかった。木更津にとって「名探偵であること」はペルソナの一つに過ぎないが、香月はそれ以外の面を求めていない。従って香月の視点を通した木更津悠也は、名探偵という表層のみで出来ているかのような、空白の存在に思えた。


また木更津の探偵ぺルソナは柵と香月によって規定されている。周りの要請や依頼がなければ動くことはなく、香月がいなければ推理も進まない。これではまるで操り人形である。
さらに言うならば、香月の地の文は視覚的な情報が多く、彼以外の登場人物(特に木更津)の内面を伺わせるような描写も避けられている。単行本を読む限り、木更津悠也とは麻耶キャラの中でもスタンダードな探偵キャラを、さらに探偵役割の実験のために薄めたような印象だった。


香月の視点によってペルソナだけの存在となった木更津は、「名探偵としての行動」と「推理」によってしか自分の存在を証明することが出来ない。面白いのは、その「推理」すら助手に操作されている木更津が、それでも名探偵としてのレゾンデートルを奪われずにいることだ。
この点、木更津と貴族探偵は少し似ている。貴族探偵は「推理」という探偵に不可欠の要素を自分の召使に行わせているにも関わらず、探偵であることが保証されている。それも、召使たちの言動によって。

銘探偵 メルカトル鮎

メルカトル鮎は、長編と短編で役割が少し異なる。具体的には長編ではトリックスター、短編ではより積極的なプロットへの介入である。*1


彼は木更津と対照的に、自分が「銘探偵である」と宣言することで、その存在を証明できる。たとえどれほど探偵倫理に背向いていようと、どれほど論理的に破綻した行動であろうと。
彼の探偵ペルソナは木更津とは異なり、行動よりもその銘探偵宣言によるところが大きい。
また「鴉」によると、キャラ設定が人格形成へ、そして探偵スタイルへと関連していることも仄めかされている。ただ、「翼ある闇」を書いていた頃、ここまでメルカトルと長く付き合い続けることを想定していなかったとしたら後付けということになる。このあたりは「痾」「あいにくの雨で」「隻眼の少女」に繋がるかもしれない。特に「隻眼の少女」は、その出生によって探偵になることを規定された少女が「探偵であること」を証明する過程が作品のテーマとなっている。

揺るがない麻耶雄嵩

これらの探偵像や作品群を読むと、麻耶雄嵩ほど探偵という存在にこだわり、実作に反映させている作家は稀有だと思う。
最大の特徴は、これだけ探偵を利用した実験を繰り返しながら、なお確固として探偵であることを守り続ける点だ。プロットを操作されようが、探偵たる要素を削ろうが、銘探偵であろうが、麻耶作品の探偵たちはそのペルソナを守られている。
それは、プロットに対する姿勢とも似ている。突飛な設定の上にもロジックを構築し、本格ミステリの形にしてしまうのが麻耶雄嵩の特徴だ。


その実験で崩せないものが麻耶雄嵩の探偵観・ミステリ観であり、逆にいえば崩せないほど愛しているものなのだと思う。

*1:短編集「メルカトルと美袋のための殺人」は、同時にプロットにおける助手(記述視点)がどれほどの役割を行えるか、という実験もあると考えられる。