愛川晶「ベートスンの鐘楼 影の探偵と根津愛」

ベートスンの鐘楼 (カッパ・ノベルス)

ベートスンの鐘楼 (カッパ・ノベルス)

あれ、「網にかかった悪夢」を読んだのはいつだっけ。読了メモしたっけなー? まあいいか。
さて、「根津愛シリーズのリーダビリティーはひとえに根津愛が背負っていたのね」と再確認したところで思ったのですが、交代人格というのは極めて探偵役に向いている特性を持っていますね。
当事者の方には不愉快な言い方になるかもしれないので、畳みます。

「もう一度言うけど、ナオには探偵としての才能がある。(引用者中略)それにねえ、あなたたちのようなケースでは、こういった例は少しも珍しくないの」
「多重人格症のことを言っているのか」
「もちろん。交代人格の性別や年齢が違うのは当然だけど、知能や身体的能力に関しても、ホスト人格とは段違いだという場合が少なくない。例えば、数学の劣等生に抜群の計算力をもつ人格が現れたり、とかね」


    愛川晶「ベートスンの鐘楼」p.351-352より

このような頭脳的特性を前提とし、一方

では、いわゆる「ワトスン役」の目を通して事件を記述する利点は何でしょう? 読者は自在なる〈神〉の視点に振り回されることなく、一人の「ワトスン」の限定された視点に寄り添いつつ謎と向き合います。犯人を含む登場人物は必然的に「外面」から描写され、仕種や言動の端々から”読み取られる”記号内容はワトスンの独り合点な「解釈」にすぎません。神はサイコロを振らず、振るのはワトスンのみ。


     佳多山大地「回想のメルカトル」より/麻耶雄嵩「メルカトルと美袋のための殺人」講談社文庫版解説として収録

つまり、手がかりがそこにあったにもかかわらず「見逃していた」「読み取れなかった」、あるいは「気づいてはいたが、どういう意味かわからなかった」記述者に対し、「見逃さず」「読み取り」「どういう意味かを推理する」ことができる人格が探偵であるとすれば、そのまま記述者=ホスト人格・探偵=交代人格に重ねられます。