高原英理編「リテラリーゴシック・イン・ジャパン 文学的ゴシック作品選」

特に気に入ったもの

編者である高原英里による「グレー・グレー」は再読です。冒頭の「リテラリーゴシック宣言」と、高原自身のゴシック小説からこの作品を選んだという目次だけでニヤニヤが止まりません。端的に言って素晴らしいゾンビ愛小説です。主人公はネクロフィリアではなく恋人に対する思慕だけで愛してるのに、高原がゾンビ好きすぎてゾンビ愛小説になっているという、それでもとても静かで綺麗で美しい作品。

リテラリーゴシックとは

「リテラリーゴシック宣言」をありえない短さでざっくりまとめると、ゴシック精神に基づく小説ではなく、その有無に関わらず形としてゴシック傾向にあるものを指します。
それを高原自身のチョイスで選び抜いているあたりがまた楽しい。自分のリテラリーゴシック選を考えるのも面白そう。

自分のゴシック観

そこで本書の収録作、またもともと好んで読んでいた小説の中から自分の好きなゴシック小説を振り返ってみると、好みのひとつの傾向としては「結末まで一貫した論理」が挙げられると思いました。
本格ミステリにおける狂人の論理のような、と言っていいでしょう。どれほどゴシックのガジェットが用いられても、完成された世界であっても、そこに論理がなければゴシックが面白いとは思いません。
「月澹荘綺譚」の最後の一行などはまさに論理によって書き出されるゴシシズムだと思う。純正なミステリではないけれど、フィニッシングストロークとしてはかなり良い。


たとえば向かおうとする先が死であっても、意思や論理に忠実に従い、全うしようとする(ただしそこに成長という要素はまるで存在ない)、リビドーのようなゴシックが好きです。
「兎」の残虐行為の目的とか、とても美しい。良い、というよりも、美しい。残虐でありながら純粋に、「あたしはあの時の、ぞっとするほど綺麗だった自分の姿をはっきりと見る」ことを求めているのが美しい。あれほど生臭い物語を、ただ”美しい自分”への憧れとして書き上げているのがかえってゾッとしますね。
高原がリテラリーゴシック宣言で書いた、「恐怖や残酷さへの思惟」「メランコリックな情緒、死への感受性」そのものだと思う。


論理の話に戻ると、ただゴシックの場合は、ミステリでは解決編まで他の登場人物や読者にその論理が共有(理解)されないのに対し、作中にその論理に共感する人物がいたり、狂気が存在することをどうかすると世界設定上のシステムによって守られていることがある。
それがプロット上よく計算され、非常にうまく書いているのはやはり乙一だと言えます。「GOTH リストカット事件」は単行本の収録順から、読みながらほぼトリックが割れるためミステリとしてあまり楽しめなかったのですが、常識から逸脱したゴシック倫理を主人公と森野夜が分け合っていること、妙な論理を貫徹させる登場人物を「僕」の側からさらに奇妙な人物として描いており、なおその文体が自然体であることなどは再評価に値すると思います。


もう一つ、詳しく研究されているかは寡聞にして知らないのだけど、ゴシック小説におけるリーダビリティとしての音楽の描写の効果も非常に興味深い。
ゴシックは特に、音楽の描写があげる効果が凄まじいと思うんです。何故だろう物語の展開よりも末端に及ぼす効果? 雰囲気から狂気から舞台演出から転換まで。
自分がリテラリーゴシック選を考えるなら山口雅也カポーティは絶対に入れたい、と思う理由がこれです。