あまりにも似ている

プログレッシヴ・ロックの哲学 (Serie′aube′)

プログレッシヴ・ロックの哲学 (Serie′aube′)

アリプロが紹介されているというので手に取ったのですが。

気になる記述が2カ所

まずは文中の引用から。

極端な話、ロックンロールにおける進歩性とは、難解な理論や技術からの退化であったはずなのに、それがいつのまにか、難解な理論や技術を導入する――それも不完全に――ことが、ロックンロールの進歩性と勘違いされてしまったわけで、このことを痛烈に批判したのがパンクと、それに続くテクノ――とりわけ退化をもじったディーヴォだったというわけだ。
    (津「匿名時評――笑いの迷宮・ぷろぐれ」、<文藝>、一九九四年秋季号、二七四頁)


そして、巽氏自身の文から。

だが、にもかかわらずというか、だからこそというべきか――つまり、かつてのように積極的なヴィジョンが失われ、そもそも何らかのイデオロギーを示すことそのものが困難になった時代を迎えつつも、むしろだからこそ――半ば能天気に、半ば時代錯誤的に、そして半ば誰よりも確信犯的に「音楽の進歩」を信じ「プログレッシヴ・ロック」を意識してみせるという擬似反動的なブラック・コメディが、あまりにも逆説的ながら、かえってえもいわれぬ「新しさ」を帯びて映ったはずなのである。

そう、これはまるで……

もうお気づきでしょう、これは日本のミステリ界における社会派時代と新本格にあまりにも似ています。
有栖川有栖も「パンキー・ファントムに棺はいらない――山口雅也論」で、「本格とロックは似ている。どちらも産業化され、スピリットもないまま消費されたことがあるからだ」と述べていましたが(うろ覚えなので要約しました)、上の引用はまさに新本格の本質を言い当ててはいないでしょうか。