有栖川有栖「菩提樹荘の殺人」

菩提樹荘の殺人

菩提樹荘の殺人

若き日の火村に見る、名探偵の時間軸

「若さ」という共通のテーマで括られた本書の中でとりわけ語るべき点が多いのは、学生時代の火村を描いた「探偵、青の時代」と、17歳のアリスの記憶が現在の二人の会話で扱われる「菩提樹荘の殺人」です。
ここではその二作から、火村英生の成長について、火村・アリスの関係性とともに考えていきます。

以下で本書の内容に触れますので、未読の方はご注意ください。

「探偵、青の時代」

雑誌掲載時にも読んだ作品です。
当初はミステリというよりも、伏線を利用してキャラクターの一面を見せる小品といった印象で読みましたが、短編集で「現在」の火村の姿と肩を並べていることを踏まえると、より若き日の火村の幼さが引き立つと思いました。というのも、その"一面"というのが「現在」の火村とほぼ変わらないことに対し、"推理"の後始末があまりに未熟なのです。


あくまでも私見ですが、名探偵とは謎に対し推理・解明を行う人物であると同時に、事件(作品)の幕を下ろす役であり、また謎に付随する様々な経緯・動機・人間関係、あるいは感情の行き場、個人の遺産や遺言といった、本来彼個人とは関係の無いネガティブなものと否応なしに関わることになる人間でもあると考えています(私はこれを「名探偵の負債」と呼んでいます)。
「探偵、青の時代」に関しては同級生と言う"罪"を持ちこんではならない関係の中での出来事であり、どちらかといえば日常の謎に分類される事件です。
この謎に火村は名探偵として介入せざるを得なくなり、解いてしまった結果を始末できずただその場を去ります。「現在」の作家アリスという聴き手を通して落ちをつけ、可愛らしい小品に仕上げてはいるものの、その姿は読者の目にひどく幼く映りました。


これは決して批判ではなく、名探偵の”成長”を伺わせる面白いエピソードだと思います。
「現在」の火村は英都大学の助教授という社会的役割を得て、警察にアドバイスを求められる立場にもいます。つまり(特に短編では)事件前/後の"関係者"としてのピリオドの所在がはっきりしているのです。また近作では「ロジカル・デスゲーム」などで関係者に事件後も関わりを持つなど、アフターの仕事をすることもできる。探偵として不足のない能力を身につけています。
しかし「探偵、青の時代」は、すでに「人を殺したいと思ったことがある」10代を経験し、名探偵としての道に足を踏み入れた火村が、それでも名探偵として果たすべき役割を、技量をまだ持てずにいる。
この未熟さを踏まえて「菩提樹荘の殺人」に進みましょう。

菩提樹荘の殺人」

犯人を特定するポイントをシンプルにすることで切れよくまとめられたフーダニットですが、この作品で着目したいもう一つのテーマが"老い⇔少年時代"、すなわち時間軸です。
なぜこれが重要だったのかというと、作家編が時間を止められた中で進行する物語だからです。


作者・有栖川有栖は火村の過去について、その真相を用意していないことを公言しています。
それについて「朱色の研究」のように語られることはもうないのだろう、と思ったのが、作中の火村の年齢が止められた時でした。ここからは個人的な解釈なのですが、私は火村の探偵活動の動機を「人を殺したいと思ったことがあるから」ではなく、「『人を殺したいと思った自分』を許せなかったから」だと思っています。
ならば年齢を止められた火村にはその過去に決着をつける未来は訪れない——少なくとも、彼の過去を聞くことを出来ない作家アリスが、語り手である限り。


しかし「菩提樹荘の殺人」では、それが覆されます。
以前まで火村が知ることのなかったアリスの過去が打ち明けられ、彼に受け止められる。学生時代の二人の関係を思い起こす会話が伏線となることで、止められていると思われた作中に"時間軸"が現れたのです。
年齢がストップしたままでも二人の関係はゆるやかに深くなっていることを、"老い⇔少年時代"というサブテーマ、そして殺人という永遠に時を止める行為との対比で描いた素晴らしいシーンだと思いました。