十二国記外伝「漂舶」を読みました

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シリーズ既刊完走から一ヶ月、探していた「漂舶」が手に入った。
『双頭の悪魔』のハードカバー版は五年かかったのに……。


舞台は尚隆が即位してから百年以上が過ぎた雁。官吏に拘束される日々に辟易した尚隆と六太が玄英宮を抜け出し、別々に行動していたところをある場所で落ち合う。
心を踊らせながら読み始めたのに、コメディ調で始まったこの外伝はとても後味が苦かった。

①まず思ったこと

ラストシーンで朱衡は、玄英宮を船にたとえる。
最後になってタイトルの意味が分かる小説大好きですね。


私は『東の海神 西の滄海』を読んで以来、尚隆のことを玉座でなければ生きていけない人」だと思っていたのだけど、漂舶を読んで「もはや玉座以外に生きる場所のない人」だったんだと認識を改めた。

更夜(=六太)を憐れみ連れて帰ろうとしたのも、他ならぬ自分が帰るべき場所を失っていたから?

蓬莱で死にかけた尚隆が「国が欲しい」と望んだのは、生きたかったからでもやり直したかったのでも償いのためでもなく、もしかしたら「罰を受けたかったから」なのかもしれないと思った。
だって、断罪されないまま生きていく方が耐えられない。

後に尚隆は短編・帰山で、即位後五百年を生きていながら「永遠のものなどなかろう」とあっさり言い切ってしまう。その刹那性が怖いと思っていたけれど、これなら永遠なんて願えるはずがない。
なんだこの人のあまりにも深い溝は……。

②連鎖していく影のこと

そうなると斡由の墓参りも、自分の葬式に近いんじゃないかと思う。

更夜がもうひとりの六太であったように、二組の父子もまた相似形を描いている。
相似形といえば、街が栄えると増えていく妓楼も象徴的だ。それは国を進めるために犠牲を払わなくてはならないことと対応している。
「どうせ玉座などというものは、血で購うものだ」と言っていたように、尚隆はこういった国の影の部分をよく見ている。

人が光でいるためには、光が生むすべての影を背負えなくてはならないのだ。
「華胥」はその影を背負えなくなった王の話だった。

③考え始めたら眠れなくなったこと

尚隆が一人で出奔するのがもしもハレとケでいうケの方だったら?
我を忘れるような華やかな非日常ではなく、むしろ煩わしいくらいに続いていく毎日のこと。

あの調子では賭事だって負けることも多そうだし、自信のない人が自分は無力であると思いたいのと同じように、絶対王者でなければならない人が弱さを確かめるように負けていたらどうしよう。碁石
そんな人が天を相手に賭けなんてするかな。本気でやるつもりだったのを補強してはいないか。それとも自分の王としての運命がどこに向かうのか見たかったのか。あれは天に負けて諦めるためだったのではないか。

④ラブレターめいたこと

そんな尚隆を光たらしめているのが六太なのだが(③も六太が一緒に出奔するならハレになりうる)、漂舶ではそんな尚隆を見つけても一人にさせてあげる。
私は『マリア様がみてる』の佐藤聖藤堂志摩子姉妹が好きだったので、唯一無ニの半身同士が「片手だけつないで」いるのに弱い。
あのシーンの六太は、片手を離すことで尚隆を守り失わないようにしていたのだと思う。


漂舶での二人には「大丈夫」と言ってあげたくなる。
民が味方したように、湘玉が言ったように、そして六太がそうしたように、天は尚隆を王に選んだ。

それに、四百年後にはもう一人現れる。
それが罪だと知らないまま父を止めず、多くの民を失い何もかもを奪われ、裁かれる直前でまたしても生き残され、それでも自分を改めて、祖国から遠く離れた慶を助けられるくらい強く生まれ変わる人が。
だから大丈夫。

影を背負える光でいてください。