バチカン奇跡調査官シリーズを読んでいます

Kindle Unlimitedに登録してから、これまで読んでこなかった旧作、ベストセラーをよく読んでいる。
バチカン奇跡調査官は以前短編集『独房の探偵』だけ読んだことがあって、Kindle Unlimitedに序盤の巻が何冊か入っているのを見つけて「それなら読んでみよう」とダウンロードして読み始めた。
そしてUnlimitedサービスにある巻をすべて読むと腹を括り、電子書籍で全巻まとめ買いして、現在『悪魔達の宴』まで読んだ。
第一巻『黒の学院』を読み始めてからおよそ一ヶ月。私にしては速いペースで、白状すると睡眠時間と社会生活をだいぶ犠牲にした。

コロナ禍でライブはない、試合会場は遠い(基礎疾患があるのでカルテのない土地に行きたくない)、挙句に応援していたバンドの活動休止が決定した頃だった。人は得てしてそういう心の隙間だらけの時にタチの悪い男に引っかか沼に落ちるものである。


のめりこんだきっかけは第二巻『サタンの裁き』だった。
ミステリ好きとしては『黒の学院』よりもこちらの方が完成度が高いように思う。
カトリック教会を舞台にする必然性がより強く、随所に張り巡らせたホラー要素と伏線をきっちりと回収する真相。全体的にとてもスマートにできたミステリだ。

この巻を読んで私は主役の一人ロベルト・ニコラスのことが大好きになった。
家の事情で聖職者になった出自から神父なのに信仰も半信半疑、博識であるが故にキリスト教の歴史への後ろめたさも感じ、悩み惑いながらそれでも相棒・平賀とともに必死に真実を追い求める姿についつい感情移入して応援したくなるのだ。
あと化粧をしてほしい。もとが良いからYSLのレッドインザダークだけで完成すると思われる。

短編「日だまりのある所」ではロベルトの孤独な少年時代が描かれる。心を閉ざしていた少年が物語と出逢い、本を介して人と関わっていくエピソードに本好きとして共感せずにはいられなかった。
その続編でもある「シンフォニア 天使の囁き」は、うっかり公共の場所で読んだことを後悔した。一人で読みたかった。そうしていたらボロボロに泣いていたと思う。
彼の隣にヨゼフ、すわなち"神は増し加えてくださる"を意味する名の友人がいることの幸福を噛み締めた。


このシリーズは「バチカンに依頼された奇跡調査」というヴェールこそあるが、調査方法は地道なフィールドワーク×科学的検証であり、二人の神父の特性を発揮した先には歴史ミステリだったり伝奇だったり、はたまた島田荘司並みの超力技フィジカル解決が待っていたりする。
その中にキリスト教の、どちらかといえば後世にとっては負の歴史を踏まえている以上ロベルトのネガティブな面は不可欠でもあるのだが、そこは一冊ごとに平賀の善良さやサウロ大司教といった救いが用意されているので安心して読んでいられる。
『月を呑む氷狼』ではロベルト自身の信仰心が救いとなった。自分が自覚している以上に人を助けようとする意欲もあるし、愛と知性の人だと私は思う。

カトリックといえば『原罪無き使徒達』は刊行年からすると当時の時事ネタ満載だったのではないだろうか。
バチカンのスキャンダルから教皇の辞任も実際にあったことだし、天草の世界遺産登録に向けた運動もこの頃動いていた。
エピローグの平賀の台詞は現教皇フランシスコをモデルにしていると思われる。カトリックが他の文化や民族を侵害してきた歴史を謝罪し、他宗教・他宗派との対話を進めている方である。この巻はリアルタイムで読んでみたかった。

今はシリーズ既刊の折返しまできている。
もう半分、平賀とロベルトと一緒に駆け抜けていくのを楽しみにしている。

米津玄師に突然ハマって一年経過した人の話 〜STRAY SHEEP〜

米津玄師の音楽を聴くようになって、そろそろ一年が経つ。
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2019シーズン終盤の悲しみを慰められ、年が明けて「今年は本を百冊読みたい、できれば教会にも行きたい」と目標を立てた。

けれどすぐにコロナ禍がやってきて、事情があって現場と呼べるものには今も行けておらず、時間ができたため幸か不幸か百冊はあっさり達成した。日曜に休みが取れたら教会に行っている。

迷える羊

夏にリリースされたアルバム「STRAY SHEEP」の話をしよう。

表題曲「迷える羊」では混迷する時代を舞台演劇に見立て、
①この時代に生きる生身の人間の苦悩
②役柄のように何かを負って世界に向けメッセージを発するペルソナ
入れ子構造になっている。

①では監督は沈黙、脚本の終わりは書き上がっていない。救い主を生むマリアも作中にはいない。
そんな中で②の米津はかぎ括弧つきで、祈るように、それでも堂々と、増え続ける迷える羊たちに向かって歌う。

「君の持つ寂しさが 遥かな時を超え
誰かを救うその日を 待っているよ ずっと」

「迷える羊」はもともと新約聖書に由来する。
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ここで書いたことの繰り返しになるが、ある人が百匹飼っていた羊のうち一匹が群れを離れたら九十九匹を置いてでもその一匹探しに行く。そのように私たちひとりひとりに向けられる神の愛を説くエピソードである。

この曲が表題作であることを踏まえると、私は「優しい人」にもイエス・キリストの面影が重なるように思えてならない。
エスは伝道中、弱い者や病人によく目を向け癒していたからだ。

戻れない世界の先

アルバムの新曲では、私はカムパネルラとDécolletéが好きだ。

カムパネルラはタイトル通り、米津が愛する宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を題材にした曲で、亡くした友が残していった傷を抱え、その人を憶えて生きていくと歌う。夢、リンドウ、クリスタルなどは『銀河鉄道の夜』に出てくるモチーフだ*1

この曲は歌詞やアレンジも好きだが、何よりも、憂いを帯びて深く潜っていくほど透明さを増していく米津の中〜低音域が美しいと思う。
「君」を想う切なさと終わる日まで続くであろう痛み、「あの人の言う通り わたしの手は汚れていくのでしょう」の切れ味も推したい。

その痛みはひまわりにも引き継がれていると思う。
この曲はLAMP IN TERRENの松本大がギターで参加している(真夜中に情報解禁されて目が覚めた)。

Décolletéは私がタンゴ好きだから。
この曲だけは最後まで光の方へ浮上しない。

アルバムの最後を飾るのはカナリヤ。
私はカナリヤとカムパネルラは対になっていると思う。違うのはカムパネルラの「君」が過去にしかおらず、カナリヤの「あなた」は今も未来も「わたし」とともにいること。
もう戻れない日々のことを覚えたまま、変わっていく未来の中も最後まで歩いていこう、と肯定の言葉を噛みしめるように繰り返す。
生き方を大きく変えなければならなくなったこの時代の人に「見失うそのたびに恋をして 確かめ合いたい」と届ける、あまりにも優しいメッセージだ。

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ヨハネによる福音書 13章34節

一年かけて知ったこと

米津玄師の音楽を聴くようになって、そろそろ一年が経つ。

辛かった時に受け止めてくれた米津の音楽が好きだから、彼が表したいもの、興味のあること、どんな本を読んできたのかを知りたかった。
知りたいと思ってから動き出すまでが速くなって、だから本を読んでいった。
それを追求していくことで、自分は何が好きなのか、何に興味があるのかといったことも気付かされた。

生活からライブがなくなり、去年まで好きでライブに通っていたアーティストを軒並み聴けなくなった時はずっと米津の曲を聴いていた。
ライブに行かなかったからこそ聴いていられたなんて皮肉なことだけど、本当に助けられたのだ。

この一年間、米津は私にとって光の在処を知らせてくれる人だった。
願わくは次の一年もそうでありますように。

*1:ちなみにこの文章はアートブック版のブックレットを見ながら書いているのだが、これページが180度開く

ゴーストハントシリーズを読みました

十二国記を完走した直後、角川文庫版『ゴーストハント』が発売された。
周りの小野不由美読者も少女小説好きもこぞってゴーストハントを買っているのを見て私も買い、他の小野作品とともに読み始めた。
旧校舎怪談→鬼談百景→残穢→人形の檻の順。なかなか良い順番で読んだと思う*1

三巻以降は文庫で出ていくのに合わせて読んでいくつもりだったのだが、待ちきれなくてリライト版単行本を読んでいくことにした。
この頃、あるフォロイーがぼーさんにのめりこんでいるのを見て「人をこれほど狂わせる滝川法生とは……?」という興味が勝ったからだ。
ベーシストらしい。ベーシストじゃしょうがない。落ちたら諦めろとしか言えないのだ、ベーシストは。
個人的に機材リストが欲しい。メインのベースとの出逢いは? エフェクターボードはどうなっていますか?

この時は「絶対にこの人が推しです!!!」と言い切れるようなキャラクターはまだいなかったのだが、ジョンが可愛いなと思っていた。
彼はどんな物事もフラットに見ていて冷静なのがいいですね。宗教の理論と科学/超心理学の理論と人柄とが、麻衣のフィルターを通して同じ次元で統合されている。

以下は各巻の真相に触れながら感想を書いていくので、未読の方は今すぐ引き返して続巻を読んでください。
私は完全に自己責任で致命的なネタバレを踏みました。

二、三冊ずつ借りて読んでいこうとしたが、図書館に行ったら単行本が全巻揃っていたので思い切って七巻まで借りて帰った。二週間で五冊、たぶん読み切れると思う。
私の直前に借りた人の貸出票が挟まっていて、その人も全く同じように一気に読んだらしい。

読みました

さてその後どうなったかというと、図書館から帰って午後から『乙女ノ祈リ』を読み始め二日で全部読みました。
十二国記より速い。

『乙女ノ祈リ』は硬派なフーダニットの本格ミステリだった。
犯人を絞り込んでいくロジックがとてもスマートだが、私が舌を巻いたのはむしろ友達との会話を通して手がかりを出したりミスリードしていくなど、少女小説特有の小説作法が巧みに利用されていたところだ。犯人が突きとめられてから動機に迫っていく運びが驚くほど自然で、これもまた少女小説らしい展開だと思う。
倫理を捻じ曲げられてしまった犯人の、狂信的でまっすぐな動機も私好みだ。

ゴーストハントの世界では、超自然現象や心霊現象、それを起こす「もの」が事実存在することを前提として、それらを含めた世界の論理で真相を推理していく。
旧校舎怪談では心霊現象の正体を追及するだけでなく「どのように幕を引くか」も重視されていたし、人形の檻・鮮血の迷宮・海からくるものでは「なぜ心霊現象が起こるのか」を追ううちにちょっとした地域史ミステリに至る。死霊遊戯では「どのように呪術を打ち消すか」が見どころだった。
しかし全巻を通して振り返っても、乙女ノ祈リほどオールドスクールな、解決編の前に「読者への挑戦」を挟めるような本格らしい巻は他にない。

推しができました

『海からくるもの』ではオッカムの剃刀を振るうナルが動けなくなってしまったために、SPRのメンバーが調査・除霊に乗り出す。
霊能者でない安原さんの調査もちょっとした特殊能力で、地域の歴史をあたるのに「図書館で現地の学生にバイトを持ちかける」なんてまるで人間OPAC

この巻のジョンの除霊シーン(取り憑かれている女性の霊を祓うところ)は格好よすぎた。十字架にキスしたところで私は落ちた。
その十字架を私にもください……。

神父相手に何をヴィジュアル系の歌詞みたいなことを。

二巻までに感じていたジョンの姿勢は、その後の巻でも変わらないように思う。
付け加えるなら、超心理学の知識が豊富なだけでなく人に説明するのも上手い。人に分かるように説明するには、その事柄についてよく理解して自分のものにしていなければできないことで、さらに司祭としての喋る技術も入っているのではないだろうか。
説教とお祈り聞きたい……推しの祈る声……。

ちょくちょく信仰ありきの描写があるのも好きで、これはキリスト教に馴染みのない麻衣の目を通すと言葉や表情でしか捉えられないのだが、それがかえって憑き物落としの"腕前"を際立たせる効果を生んでいる。

こういった傾向もシリーズ序盤からずっとあったのに、なんでここまで踏みとどまっていたのだろう?
いやもしかして、人は新たな沼に落ちるとそれにまつわる知識を学ぼうとしたり推しにまつわるものを集めに走ったりするけれど、ジョンに関するそういったものを元からある程度備え持っていたから既に好きになっていたことに気付いていなかったのでは……?
主の祈りは分かるし(テストに出る)、暗誦とまではいかなくても聖書をつっかえずに音読するくらいはできる。
ちなみに宗教が理由で推している訳ではない。プロテスタントに関心はあるがカトリックのことは疎いから、せっかくだし自主勉強しようか*2

一度くらいジョンが主役を喰うくらいの話も読んでみたかった。それこそ綾子みたいに。
綾子も見せ場があって良かったね……。この歳になると少年少女の正当性を担保するために大人を無能扱いするのがそろそろ辛いので気がかりだった。
頼れる大人として書かれるようになって本当に良かった。

『扉を開けて』について

本編最終巻となる『扉を開けて』も、各巻に散りばめられていた伏線を回収していくミステリである。
ナルの正体が分かったところがヤマかと思いきや最後にまた逆転が待っている。

ユージンの夢を振り返れば、伏線という伏線が少女小説のフォーマット中に落としこまれていた。
好きな人にだけ口に出せなかったりすれ違ってしまったことが積もった結果、ナルが助けていてくれたのだと思っていた麻衣の恋は反転する。これまで甘酸っぱく幸せであった恋をあまりにも残酷に、鮮やかなトリックに利用する手口が悪魔めいている*3

真砂子との会話の中で、麻衣が名前を呼ぶのはその人への親愛を表すことだと思い大事にしていると描写されており、ユージンの名前を一度も呼ぶことなくお別れしてしまったのがよりいっそう切ない。
最後の最後のエピローグは爽やかなのに、読み終えた私はガタガタ震えていた。

これからしたいこと

続刊にあたる『悪夢の棲む家』を借りてきたので次はこれを読みたい。
連休が明けたらもうすぐ『乙女ノ祈リ』の文庫も出る。この後もまだ、麻衣たちとの物語を楽しんでいきたい。

*1:個人的には、怖い怖いと聞いていた残穢よりも人形の檻の方が怖かった

*2:その後感動するくらい可愛いロザリオを買った。

*3:この手口には心当たりがある

MIU404と感電

ドラマ「MIU404」の放送終了後、最初の金曜日。
ロス真っ只中でこのエントリーを書いている。

当初は主題歌が米津玄師だからと見始めたのにドラマ自体にもすっかりハマってしまい、ライブに行けない日々の中MIU404は大きな楽しみだった。

以下の文章では、各話の詳しい内容や真相に触れながら感電について振り返っていく。

第一話はそのテンポの速さについていくのに精一杯で、正直なところ私は脱落するかもしれないと思った。頑張って三話まで見よう。そこで続きを見るか決めよう。
終盤でかかった感電はその時が初公開。ブルースの色が落とされたその曲は、軽やかなリズムに対して怖いくらいの刹那性も持ち合わせているように聴こえた。
危険なシーンやまだ打ち解けていない志摩・伊吹バディのデコボコな印象と相まって、どこか仄暗さえ感じた。

迷える羊

そんな印象は第三話で一変する。
イタズラ通報を繰り返していた少年たちが機捜に助け出されるが、そのうちの一人は逃げ出して行方をくらませてしまう。
歌詞とストーリーとの噛み合い方が、それまでとはまるで違っていた。感電は志摩と伊吹のみならず、多くの登場人物の心情を細やかに代弁するような曲へと化けた。

また逃げた少年は、当時すでに発表されていたアルバムのタイトル「STRAY SHEEP」を連想させた。
これは迷い出た羊のたとえ(もしくは見失った羊のたとえ)と呼ばれる聖書のエピソードに由来する。ある人が持っている百匹の羊のうち一匹がどこかにいなくなってしまったら九十九匹を置いてでもその一匹を探しに行く、そのように私たちひとりひとりを――神のもとを離れてしまう人でさえも――愛する、という神の愛を説く話である。
社会から取りこぼされていく弱者を救おうとする桔梗隊長の姿勢にも通じるように思われる。

「三話まで見て決めよう」と私は考えていた。
決まった。続きも見ていく。

未知の上の句

ここから感電は恐ろしいほどの輝きを見せていく。

目標通りに人を救えた機捜を称える曲として、志摩のかつての相棒に声を届ける痛切な曲として、どうしようもなく不幸な物語に「返事はいらない」と幕を引く悲劇の曲として。
まるで一話ごとに「感電」という箱から新しい絵の具を取り出していくように、こちらの歌詞の解釈をどんどん書き換えていく。

白眉は第四話「ミリオンダラー・ガール」で、青池透子が最後に見つけた希望を反射した感電は、そこから続いていく美しい未来を予感させる爽やかな煌めきを画面いっぱいに注いでいた。
宝石を乗せたトラックがバスを追い抜いていく光景に「まだ行こう 誰も追いつけないくらいのスピードで」が重なった時は鳥肌が立ったものである。

Lemonが大きな悲しみをも受け止める下の句なら、感電はその先にどんな景色が映るのか、誰にとっても未知の上の句である。

余談だが、序盤あまりいいところのなかった九重刑事にこの回で快挙ともいえる見せ場が来たことから私は隠れ九重推しだ。
九重のバディである陣馬は一見ミスマッチなようで、九重の未熟なところも憧れの眼差しもすべて受け止められる偉大な人。彼も九重に助けられているし、九重のために自分のポテンシャル以上に強くなれていると思う。私はそういうバディに弱いんだ。
意識が戻らない陣馬さんの病室に詰めて語りかけ続けるきゅーちゃん愛だろ……。

女性バディについて

さて、ここで話を機捜の人物へと戻そう。
感電はまず志摩と伊吹の曲であるため、女性の存在を当てはめにくいのだが、MIU404には一組だけ女性同士のバディがいる。桔梗ゆづると羽野麦だ。
警察と犯罪被害者、保護する者とされる者。そうして出逢った二人は、しかし決して強者対弱者ではない。
第九話で羽野が切り札となった通り、共に戦う対等なバディなのである。

依然として男社会の警察で隊長を勤める桔梗も、共に戦う女性バディを持つ羽野も、女性にとっての希望だ。

最終話、桔梗は羽野と老後を一緒に過ごすのもいいと語る。ここで感電の歌詞が頭の中をよぎった。
シングルマザーの桔梗とゆたか、そして羽野。この三人はもう家族なのだ。
桔梗・羽野バディには、家父長制度に頼らない、あってほしい新しい社会への期待がこめられているように思えてならない。

十二国記外伝「漂舶」を読みました

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シリーズ既刊完走から一ヶ月、探していた「漂舶」が手に入った。
『双頭の悪魔』のハードカバー版は五年かかったのに……。


舞台は尚隆が即位してから百年以上が過ぎた雁。官吏に拘束される日々に辟易した尚隆と六太が玄英宮を抜け出し、別々に行動していたところをある場所で落ち合う。
心を踊らせながら読み始めたのに、コメディ調で始まったこの外伝はとても後味が苦かった。

①まず思ったこと

ラストシーンで朱衡は、玄英宮を船にたとえる。
最後になってタイトルの意味が分かる小説大好きですね。


私は『東の海神 西の滄海』を読んで以来、尚隆のことを玉座でなければ生きていけない人」だと思っていたのだけど、漂舶を読んで「もはや玉座以外に生きる場所のない人」だったんだと認識を改めた。

更夜(=六太)を憐れみ連れて帰ろうとしたのも、他ならぬ自分が帰るべき場所を失っていたから?

蓬莱で死にかけた尚隆が「国が欲しい」と望んだのは、生きたかったからでもやり直したかったのでも償いのためでもなく、もしかしたら「罰を受けたかったから」なのかもしれないと思った。
だって、断罪されないまま生きていく方が耐えられない。

後に尚隆は短編・帰山で、即位後五百年を生きていながら「永遠のものなどなかろう」とあっさり言い切ってしまう。その刹那性が怖いと思っていたけれど、これなら永遠なんて願えるはずがない。
なんだこの人のあまりにも深い溝は……。

②連鎖していく影のこと

そうなると斡由の墓参りも、自分の葬式に近いんじゃないかと思う。

更夜がもうひとりの六太であったように、二組の父子もまた相似形を描いている。
相似形といえば、街が栄えると増えていく妓楼も象徴的だ。それは国を進めるために犠牲を払わなくてはならないことと対応している。
「どうせ玉座などというものは、血で購うものだ」と言っていたように、尚隆はこういった国の影の部分をよく見ている。

人が光でいるためには、光が生むすべての影を背負えなくてはならないのだ。
「華胥」はその影を背負えなくなった王の話だった。

③考え始めたら眠れなくなったこと

尚隆が一人で出奔するのがもしもハレとケでいうケの方だったら?
我を忘れるような華やかな非日常ではなく、むしろ煩わしいくらいに続いていく毎日のこと。

あの調子では賭事だって負けることも多そうだし、自信のない人が自分は無力であると思いたいのと同じように、絶対王者でなければならない人が弱さを確かめるように負けていたらどうしよう。碁石
そんな人が天を相手に賭けなんてするかな。本気でやるつもりだったのを補強してはいないか。それとも自分の王としての運命がどこに向かうのか見たかったのか。あれは天に負けて諦めるためだったのではないか。

④ラブレターめいたこと

そんな尚隆を光たらしめているのが六太なのだが(③も六太が一緒に出奔するならハレになりうる)、漂舶ではそんな尚隆を見つけても一人にさせてあげる。
私は『マリア様がみてる』の佐藤聖藤堂志摩子姉妹が好きだったので、唯一無ニの半身同士が「片手だけつないで」いるのに弱い。
あのシーンの六太は、片手を離すことで尚隆を守り失わないようにしていたのだと思う。


漂舶での二人には「大丈夫」と言ってあげたくなる。
民が味方したように、湘玉が言ったように、そして六太がそうしたように、天は尚隆を王に選んだ。

それに、四百年後にはもう一人現れる。
それが罪だと知らないまま父を止めず、多くの民を失い何もかもを奪われ、裁かれる直前でまたしても生き残され、それでも自分を改めて、祖国から遠く離れた慶を助けられるくらい強く生まれ変わる人が。
だから大丈夫。

影を背負える光でいてください。

米津玄師に突然ハマった人が読んだ本の話②

こういう事情で今まで手に取らなかったような本を読み続けている。
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神学と詩集

ダンテ『神曲

有言実行。
LOSERに引用されていると知って、読解に役立つかと思って読んだ。
プロテスタントでは聖母信仰も聖人崇拝もないため結構知識が偏る。なので、今になって知らないことを吸収していくのが面白い。

ベアトリーチェいつ出てくるんだろうと思いながら長い長い地獄編を読み、煉獄編に入った途端に点と点がものすごい勢いで線に繋がっていく。脚注を見ながら聖書開いて忙しく読んだ。
天国編の夥しい神学的議論の数々も楽しい。

米津の歌詞には神以外にも「天使」や「亡霊」がよく出てくる(意外に救世主-メシア-は出てこない)。
ルーツは『神曲』だけではないという前提ではあるが、そのまま適用させるなら歌詞中の「亡霊」は救われず、あるいは救いに至る道の途中にいる人の魂とみていいと思う(多くは苦しんでる)。
ただ天使は神学上の神の使い、ダンテを導き助け時に力を与える存在というよりももっと広い、抽象的な意味がありそう。

神曲』はamenにも引用されているのかな? 「光の澱に道草を誘う亡霊 九つの門を通り抜けてあの山の麓へと」が地獄〜煉獄と重なる。


高村光太郎高村光太郎詩集』

高村光太郎詩集 (新潮文庫)

高村光太郎詩集 (新潮文庫)

『我が愛する詩人の伝記』で孫引きされていた「レモン哀歌」を読んで。
死別とレモンとくればここから着想を得たのではないか、と思われるのだが、教養不足で分からなかったのが悔しかったので独断と偏見でこれも読んだ。

塚本邦雄『詞華美術館』

詞華美術館 (講談社文芸文庫)

詞華美術館 (講談社文芸文庫)

こういう本はお好きだろうか。
テーマに沿って古今東西の詩、短歌、俳句、小説などから選りすぐりの美しいものを収集し塚本邦雄が解説を寄せたアンソロジー
めくってもめくっても美文。私は定家の歌が好き。


ダ・ヴィンチ2017年12月号

ダ・ヴィンチ 2017年12月号

ダ・ヴィンチ 2017年12月号

  • 発売日: 2017/11/06
  • メディア: 雑誌
特集・ロングインタビュー「本好きのための米津玄師」
米津が影響を受けた漫画やおすすめ本が紹介されている他、刊行当時はBOOTLEGが発売されるタイミングだったためタイアップ先にも触れられている。

また「人生のバイブル」として、最も影響を受けたという宮沢賢治の詩集・春と修羅について詳しく語られている。
少し引用したい。

小説はいろんな言葉を尽くしながら構成されるもので、それこそがよさだとは思うんですけど、詩や短歌にはパッと手に掴んでポケットにバッと入れられる、くらいの手軽さがある。印象的な詩の一節って、お守りみたいな感覚で持っていられるんですよ。恋人同士がおそろいの指輪をして、それを見るたびに愛しい相手の顔や人生を一瞬で思い出すみたいに。

私も趣味で短歌を詠んでいるので、言っていることはよく分かる。途方もなく長いストーリー、人生がそこには圧縮されている。
というか「詩や短歌」とわざわざ並列するからには米津もしかして短歌も読んでいるのでは?
これまで読んだ詩集にも定型詩は多く収録されていたので、特別な興味があってもなくてもよく読んできている可能性は高いと思っていたのだが、もしそうだとしたらとても嬉しい。

解釈の話

ここからは私の考えなので春と修羅から話が逸れる。

米津の歌詞は短歌的だと思っている。
ストーリー上の膨大な情報を少ない字数で切り取り、削ぎ落とされたはずの「余白に書かれていたであろうこと」を読者が想像で埋めるシステムが取られている。

私が短歌を始めた時は、書きたいことを読み取ってもらうには「限られた字数の中にどれだけ書けるか」だと思っていたのだが、やっていくにつれてそれは違うのではないかと考え始めた。
「何を書くか/書かないか」ですらなく、「書かれている外側にあるものをどれだけ想像してもらえるか」ではないかと思うようになった。

米津の曲は、過去や未来の風景も描かれているようでありながら、それを思い浮かべている今その時の強烈な感情を執拗なまでに描写しているから、あんなに刹那的で物悲しいのに煌めいている。書かれていないことがあればあるほど、読者が思い浮かべた景色は鮮明で確かな真実として浮かび上がってくる。

それでいて歌詞の解釈の余地が広く、プロット上のある関係性から別の事象にスライドするとまた違う解釈ができる。

単純に形式だけを見ても、印象的なフレーズが五音または七音で構成されていることが珍しくない。
都々逸であるFlamingoは言うに及ばず、「ここが上の句」「ここ下の句」という箇所も点在する。その筆頭がLemonの結び「今でもあなたはわたしの光」で、揺るぎない真実であると同時に無数の解釈を許している、優れた下の句である。


これらの手法ひとつひとつはJ-POP全体で非常に多く見られるものであり、別段目新しいことではない。
しかし米津の書き方は飛び抜けてうまい。その手にかかれば、現代のポップスにおいてはむしろ新鮮にさえ聴こえる。

番外編

ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

うたかたの日々 (光文社古典新訳文庫 Aウ 5-1)

  • 作者:ヴィアン
  • 発売日: 2011/09/13
  • メディア: 文庫
五月に読んだ本が再登場。
新曲・感電の歌詞に「肺に睡蓮」があると教えてもらった。

ドラマの主題歌として書かれた曲で、感染症の影響で撮影や放送日も延期になり、その間にボロボロに泣きながら読んだ本が、六月になって米津からまた手渡されたようだった。

十二国記初読の感想

2月以来買いこんでいた本の中に『魔性の子』があった。

言わずと知れた大ベストセラー・十二国記のエピソード0にあたる小説で、目についた本をひたすら買っていた時、Twitterのフォロワーさんが「十二国記は『魔性の子』から読むといい」と仰っていたのを思い出して読んでみた。
中学生以来ファンタジー少女小説も冒険小説も新本格にも触れていたのに十二国記はずっと未読で、たぶん小野不由美の小説をちゃんと読んだのもこれが初めてだったと思う。

その後ひょんなことから(病気ではない)カンヅメ生活が始まり、せっかく時間が取れるならと十二国記本編も読み進めることにした。


はじめに言っておくと、未読の方の参考になることはおそらく何もないし、盛大に全体の詳しい内容に触れているので斜め読みくらいにするか引き返して是非ともまず『魔性の子』を読んでほしい。
あの薄気味悪さと、不思議な「あちら側」への憧れと恐怖を味わってから本編に進むことを私もおすすめする。

読み始めてから沼に落ちるまで

他に積んでいる本もあることだし、ゆっくり少しずつ読んでいければいいと思ってエピソード1『月の影 影の海』上下巻だけを買った。
が、主人公・陽子が現代日本から知らない世界に連れて行かれ、帰るための旅を始めた上巻を読んだところで私は早々と本屋に向かい3巻まで買っていた。

なぜそう思ったのか私もよく分からない。もともと少女活劇ファンタジーは好きだし、つっかえるところがない文章の口当たりも良かった(かなり大事)のかもしれない。
けれどそれなら下巻を読み終えてからでも良かったはず。
途中で買いに走ったのは、次へ次へと追いかけたくなるものに、つまりシリーズを通して語られていくであろう大きな物語の予感に惹かれたのだと思う。
(実際、巻をまたいでエピソードや伏線が繋がっていく様子も十二国記の魅力ではあるがこの時はまだ知らない)


で、次の日に下巻を読んでいたらいきなり推しができた。
陽子が助けを求めた先に登場した延王尚隆その人だった。涼しい顔してしれっと凄腕の長身の男、好みでしかない。
「まあでもまだ序盤だし分からないよね。ね」などと言い聞かせてみたが何か落ち着かない。

そんな抵抗も虚しく、その夜から午前4時までかけてエピソード2を読了し、3巻『東の海神 西の滄海』の半分まで読んでようやく寝たら夢の中で延王に化粧をさせていた。
……ビジュアル系なので好きの基準が「化粧させたい」なのである。


その3巻というのが陽子と同じく日本からやってきた尚隆が王になって間もない頃の、尚隆と彼を王に選んだ六太が主役の話。
後から思うと、よくあの時2巻で止まらず3巻まで買ったなと自分に感心する。新規ハイ真っ只中で「明日の朝本屋が開店するまで待ってね」とはとてもやっていられなかった。手元にあったから突き進んでしまった。
これか。まだ見ぬ推しに呼ばれたとしか思えない。


どれも尚隆の存在感が強すぎる。
あの性格の背景も作りこまれているのが良い。

だいたいシリーズものの3巻ともなれば、魅力的な新しいキャラクターが出てきたり、これまでにいたキャラにもあんな面やこんな面が出てきたりして目移りするものではないだろうか。
なのにタチの悪い男の過剰摂取でしかないって十二国記どうなってるの?

飄々としているようで、どうしたって表れてしまうその生き様を見たいと思ってしまう。
長年バンギャルやっているから、決して届かない立場にいて、その立場を愛されて、自らその生き方に喜びを感じて、自分を見上げる人をその目に映し愛を返す人が好きなんですよね。

なんだもう目移りなんてしていられないじゃないか……。

少女小説としてのポテンシャル

経験上こういう時は素直に落ちていった方が傷が浅くて済むので抵抗は諦めた。足先から鼻くらいまでは沼に浸かった気がする。


さてここから先のエピソードでは、ホワイトハートから始まった十二国記少女小説としてのポテンシャルが爆発していく。
『風の万里 黎明の空』では王として歩みだした陽子が多くの壁にぶつかり、そこに二人の少女が出逢って、それぞれ自分の生きる道を確かめていく。

私が特に好きなのは祥瓊だ。
公主の座から降ろされ、虐げられる最中に自分の過ちを知り、自らをアップデートして復活するプリンセス。終盤の誇り高い姿に胸を打たれる。
「復活するプリンセス」はガールズエンパワーメントの王道のひとつである。夢中になって読んだ。


また『図南の翼』もシリーズ中で一番好きな巻になった。
王になるべく、家族すら出し抜いて危険な旅に出る勇敢で聡明な少女を好きにならない訳がない。


考えてみれば『東の海神 西の滄海』にしても、私は推しが推しなので延王の物語として読んだが、どの視点に立脚しているかといえば六太の話だ。
あれは六太という少年(子どもといってもいいかもしれない)が尚隆を通して大人≒世界への信頼を獲得するエピソードだといえる。

そもそも陽子の出自からし貴種流離譚
泰麒に至ってはジュブナイルの文脈であるといえる。


少女小説とは、登場人物とともに少女が生きていくための物語だと私は思う。
もう年齢だけはいい大人だけど、物語に励まされながら生きていることだし少女小説をずっと愛していけるようでありたい。

白銀の墟 玄の月

『黄昏の岸 暁の天』まで読んで、『白銀の墟 玄の月』に行く前にもう一度『魔性の子』を再読した。


脱線するけど、『黄昏の岸 暁の天』で各国の王・麒麟が集まり討論するのを見ていると、比較して延王延麒の異質さが目立つ。
そもそも尚隆は麒麟という存在のことを理屈で理解していて、六太の抱える苦しみも分かってはいるけど、それよりも「俺のものだ」という心情の方が強いんじゃないかと思う。なぜならこの巻の尚隆はデウスエクスマキナが鳴りを潜め、わがまま三男坊が一切合切思い通りにいかず拗ねているように見えるからだ……。
蓬莱で失ったもの、麒麟が与えてくれたもの、そこに末っ子ちゃん特有の「目の前に見えているのは全部俺の!」を組み合わせると六太に対する態度が完成すると思われる。
でも六太にしても尚隆はアイネクライネby米津玄師みたいな存在だろうし、彼以外の主はいないだろう。何を言っているのか分からなくなってきた。
頭のてっぺんまで沼に浸かっている気がするが、心の中のアッテンボローに「それがどうした」と言ってもらおう。閑話休題


そして『白銀の墟 玄の月』。
戴国から姿を消した王と麒麟の行方を追いかける縦糸、王を討とうとした偽王に迫ろうとする横糸。織りなす模様が分かってきた、と思ったら怒涛のドミノ倒しが始まる奇跡のような伏線の嵐。
全四巻どころかこれまでのエピソードにさえ伏線は散りばめられており、その緻密な構成力に敬服する。小さかった泰麒が果敢に戦う姿もまた、少年の成長の物語だ。



『月の影 影の海』を読み始めてから既刊全部を読むのに10日間。銀英伝(本編10巻)でさえ2ヶ月近くかかったのに飛ばしすぎた。大変だったけど楽しかった。

この後は何をしよう?
東の海神も風の万里も図南の翼も再読したい。
長く付き合える友達に出逢ったような気分がする。